卓球の才能は生得的なものか、それとも後天的なものか?

イングランド卓球チャンピオンで、オックスフォード大学主席という経歴のマシュー・サイド著「才能の科学」を読んだ。内容は全く複雑ではなく、すがすがしいほどの明快さで、才能について語られていた。この本の内容を一言で言えば、「生まれ持った才能など幻想であり、本人の努力、トレーニング、経験、そして環境等、後天的な要因こそ才能を構成する要素である。」といった具合だ。

本にはいろいろな人物のエピソードが登場するが、ラズロ・ボルガーという「傑出性練習説」を提唱する教育心理学者の話が興味深かった。ボルガーは、自分の説(才能ではなく努力に重点を置くことが重要という説)を証明するために、自分の3人の娘で実験を敢行する。子供が4歳にもならないうちから、一日に何時間もチェスを教えこむ。結果、3姉妹は全てチェスのトッププレイヤーとして成功し、ボルガーの「傑出性練習説」に輝かしい証拠をもたらしたと、著者は記している。

私が興味を持ったのはボルガーがなぜ、チェスを選んだかという点。ボルガーの答えは「客観性があるから。娘を芸術家や小説家として教育しても、本当に世界に通用するレベルかどうか議論の余地が残ってしまう。けれども、チェスには成績にもとづく客観的なレーティングがあるから、議論の余地がない。」

この答えは非常に面白い。ラズロ・ボルガーを持ちあげる著者マシュー・サイドの考え方と、ラズロ・ボルガーの考え方にズレがある。著者は芸術家であっても、モーツァルト、ピカソ、それからビートルズに至るまで、猛烈な練習、熱心さ、試行錯誤、経験など、その才能は後天的であることのエピソードを並べている。つまり芸術や表現についても議論の余地はないとしている。

どうなのだろうか?

猛烈な練習の末に「ピアノ協奏曲20番ニ短調」や「弦楽五重奏曲ト短調」が誰でも作れてしまうものなのか、いったい、吉田秀和氏なら何と答えただろう。(簡単に想像ができる)

熱心さと試行錯誤で「バラ色の時代」や「青の時代」の作品群が誰でも描けてしまうものなのか、いったい、野見山暁治氏なら何と答えるだろう。(簡単に想像ができる)

積み重ねた経験と良い環境で「ラバーソウル」や「リボルバー」「ホワイトアルバム」が誰でも作れてしまうものなのか、いったい細野晴臣氏なら何と答えるだろう。(簡単に想像ができる)

・・・という具合に、ツッコミどころも多いが、しかし、すがすがしいほどの明快さが勝っており、楽しく読み進めることができた。

芸術や表現は別としても、では卓球はどうだろう?

もし、ラズロ・ボルガーが「傑出性練習説」の実験として、3人の娘にチェスではなく、卓球を教え込んでいたらどうだっただろうか。世界的に名を残すレベルの卓球選手になったのだろうか。マシュー・サイド著「才能の科学」を読んだ後、私はある卓球の物語の、あるシーンを思い出した。松本大洋氏の漫画「ピンポン」のシーンだ。


アクマ:どうしてお前なんだよ?一体どうして!

アクマ:俺は努力したよ!お前の10倍、いや100倍、1000倍したよ!

アクマ:風間さんに認められるために!ペコに勝つために!

アクマ:それこそ、朝から晩まで卓球の事だけを考えて…卓球に全てを捧げてきたよ、なのにっ…

スマイル:それはアクマに卓球の才能がないからだよ。

スマイル:単純にそれだけの話だよ。大声で騒ぐほどの事じゃない。

アクマ:ふざけるな。そんな事あるわけ…

スマイル:試合続ける気ないなら、帰って欲しい。僕もそれほど暇じゃない。


才能とは生得的なものか、それとも後天的なものなのか、興味が尽きない。