隠遁生活は何の役に立つのか?

卓球メーカーWINGSPANの商品開発担当として、2025年はとても数多くの試作品を作った。卓球ラケットを作るという事は、主に、木材と向き合うことと言っていい。特に今年、思いがけず入手した極めて比重の重い木材に興味を持ったため、商品化のためにこの木材と1年間格闘した。おそらく卓球ラケットで使われる木材としては史上初となるであろう木材だと思う。

それは、もはや特殊素材よりの天然素材とも言えるほどの特徴があり、比重でいえば黒檀をゆうに超える高さだ。その木材をメインで使用したラケットは、いまだ開発担当者としては解決する課題が残っている。結果的にこの高比重木材ラケット以外も含めれば、今年は約80本ほどの試作品が残された。効率でいえば極めて悪いと言わざる得ないが、できるかぎり新作は納得のいく作品を商品として世に出したい。

さて、話は変わるが、「無用者の系譜」(著:唐木順三)という本がある。これは日本の無用者と日本文化について書かれている本だが、この本には不思議な縁がある。私が入手したのは、おそらく15年ほど前になるが、その後、偶然、某国文学者と雑談していた際に、その某国文学者の指摘により、本の作者である唐木順三と私が遠い親戚筋にあたる事が発覚した。そんなこともあり、少なからず縁を感じる。

(「無用者の系譜」著:唐木順三)

私自身「無用者」について興味ががある。祖父の家の床の間にあった、深山の滝のそばの庵で釣りをする老人が描かれている南画を眺めながら、子供心にこんな生活をしてみたいと思ったものだ。それは今も変わらず、心の奥底では、自らを「無用者」とみなしたいという気分が少なからずある。

そんな気分ってありませんか?

そして自ら「無用者」としての時間を過ごすべく、2025年も少しだけ隠遁生活をしてきました。隠遁生活場所は、愛媛県、瀬戸内の弓削島。
卓球と関係のない、卓球ラケット開発担当者の画像を交えた隠遁生活記になるが、ご容赦願いたい。

(旅の始まりは今治から)

(青年のオリジナルソングはとても良かった。ギブソンSGの音も良い)

(港でもライブ。シーカーズを思わせる編成だが、曲はカントリー)

(そして、今治港を離れ、瀬戸内の島々への航行が始まる)

(一時期に比べて衰退したようだが、その造船力は健在)

(瀬戸内の島々が美しい)

(目的地の弓削島に到着)

(生活必需品の自転車も借りた)

(良い感じの路地を、生活拠点に向けて自転車で走る)

(隠遁生活の拠点、窓の外には海も見える)

弓削島での生活を始めてから、最初は体調が悪かったため、布団の上でごろごろしていた。隣の家からは老夫婦のはなし声が聞こえる。「あなた、お茶をどうぞ」「お茶なんかいらん」「こっちに来てお茶を飲んで」「お茶なんかいらんとさっきから言うとるじゃけ、何度も同じことをいうな」だんだんと喧嘩腰になるおじいさんの口調は、広島弁に近い。また、この島には、お好み焼き屋も多く、やはり広島文化の影響が大きそうだ。

そんなことを考えながら、持ってきた本を読む。

(「文学は何の役に立つのか?」著:平野啓一郎)

平野啓一郎氏の「文学は何の役に立つのか?」という本は、ネット社会等が発展した現代において、文学は、私たちの人生や社会に対して、どんな意味があるのだろうか。という難問に作者なりの回答を示した内容だ。

普段、本を持って旅に出ても、大抵はほとんど読まずに帰ってくることが多い。弓削島滞在では、体調の悪さ、海からの風、地元民の会話、住宅街にまぎれた古民家での滞在、などの条件が整った結果、ゆっくりと一冊、読書できた。読了後は「文学は何の役に立つのか?」と同じ視点で、「卓球は何の役に立つのか?」についても考えてもみたが、やはり文学と卓球は置かれている状況が違いすぎる。文学よりも卓球の方が役に立つ理由を探すことは容易である。

振り返れば「無用者」をもくろんで、隠遁生活を始めたものの、最初から「役に立つ」ことについて考えているようでは、無用者としての才覚は極めて乏しいと言える。役に立つ、役に立たないなどという評価基準に囚われていれば「無用者」への道のりは、かなり遠いのだろう。

ところで、「文学は何の役に立つのか?」の作者、平野啓一郎氏は「分人主義」という考え方を持っている。平野啓一郎氏のHPには以下のような説明がある。

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「個人」は、分割することの出来ない一人の人間であり、その中心には、たった一つの「本当の自分」が存在し、さまざまな仮面(ペルソナ)を使い分けて、社会生活を営むものと考えられています。
これに対し、「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。この考え方を「分人主義」と呼びます。
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分人主義的な視点に立てば、社会から身を隠し弓削島に隠遁生活をしている、仮面を被った私は存在しない。あるのは、新たに弓削島で生活する分化した本当の私である。その意味で、隣人の喧嘩腰だったおじいさんと挨拶を交わした私は、まさに弓削島の私が誕生した瞬間かもしれない。(笑)

その後の弓削島生活はというと、潮に流されそうになりながらも、海を一人で泳いだり(危険です)、島をサイクリングしたり、街の写真を撮ったり、島民と交流したりして満足のいく生活が送れました。唯一の心残りは、床屋に行かなかったことくらいです。

(海へ向かう路地)

(海へ向かう路地)

(海に続く道)

(美しい瀬戸内の海)